依存との付き合い方
雨上がりの曇り空を眺めながら、人間の営みの奇妙な相似性について考えている。
世間には「知識人」と呼ばれる人達がいる。彼らの部屋には、きまって床から天井までを埋め尽くすような圧倒的な本の壁に囲まれている。
デジタルという無限の容量を持つ不可視のストレージが存在する現代においてなお、彼らは物理的な紙の束を自らの周囲に堆積させる。
彼らはそれを「知の源泉」だの「知のセレンディピティ」だのという高尚な言葉で飾り立てるが、その表層を剥ぎ取ってしまえば、驚くほどシンプルな帰結に収束する。
つまり知識人の本棚は、知識への依存であり“自己主張”なのである。
脳内という不可視の領域にあるはずの「知性」を、書籍という三次元のボリュームへと変換し、 他者に、あるいは自分自身に対して誇示しているのだ。
これは、SNSのタイムラインにプール付きの豪邸や高級車の画像を滑り込ませるセレブの生態と、完全に同じ構造である。
セレブが「富」という生存優位性をシグナリングしているのに対し、知識人は「知識」という生存優位性をシグナリングしているだけなのだ。
滑稽なのは、彼らがお互いを「下品な成金」「現実逃避の紙屑集め」と見下し合っている点である。
彼らは全く同じ構造の中で、己の生息地に最適化された通貨(価値観)を握りしめ、インディアンポーカーのように背中のカードを競い合っている。
人間は、どれだけ高度な教育を受けようが、どれだけ世俗を超越したフリをしようが、 根底にある「自分の価値観やアイデンティティを他人に誇示したい」という基本OSの仕様からは、決して逃れられない。
依存という名の輪郭
世間ではこれらが極端になると、「SNS依存」や「承認欲求の暴走」と呼び、病理として扱いたがる。
しかし、抽象の階段をもう一段登ってみるならば、人間という動的システムそのものが、そもそも「何かに依存しなければ形を保てない」という宿命を背負っていることに気づく。
では、「仕事」とは何だろうか。それは社会的に公認された、最も強固な依存先である。
人は仕事に没頭し、成果を出し、他者から「偉い・さすがだ・すごい」と評価されることで、大量の承認物質を脳内に補給する。
仕事に人生を捧げていた人が定年退職後に突如として心身のバランスを崩すのは、スマホを取り上げられた若者の離脱症状と何ら変わらない。
次に「家族」とは何だろうか。それは生物学的・心理学的にデザインされた、最も緊密な相互依存の対象である。
「あなたがいてくれないと困る」という絶対的な相互承認のインフラを、愛という美しいラベルでパッケージしているに過ぎない。
アルコール、喫煙、恋愛、SNS、状況は違えどすべては同じ構造であり、すべては承認のハッキングである。
投資先がデジタルデータなのか、社会の富なのか、生命の維持なのかという、変数の違いがあるだけだ。
人間という存在は、自分という内部データを単体で維持することができない。
必ず、外側にあるオブジェクトに自らのアイデンティティをロックオンし、そこから跳ね返ってくるフィードバック(承認)を鏡にしなければ、己の輪郭(存在)を維持できない生き物なのだ。
メタ認知と、世界の調律
では、私たちはこの「依存の泥沼」の中で、ただ自溺していくしかないのだろうか。
決してそうではない。お酒もタバコも恋愛も、そしてSNSも、それ自体に善悪の属性は宿らない。
すべてを分かつ境界線は、人間側の「メタ認知力」の有無、ただ一点に収斂する。
現代社会の不気味さは、テクノロジーやアルゴリズムが、人間の脳のバグ(衝動)をピンポイントで突くことで、この「メタ認知」を働かせる隙(余白)を全力で奪いにきている点にある。
対象との「距離」がゼロになり、主客が同化してしまった瞬間、人間はシステムの「主体」から「奴隷」へと転落する。
必要なのは、システムの内側で右往左往することではなく、システムの外側へと視座を跳躍させるメタ認知力だ。
自分が今、どのゲームの土俵に立ち、どの通貨を欲望し、どれだけの深さで対象にベッドしているのか。
それを一歩引いた特等席からクスッと笑いながら眺めるゆとり。
依存のオブジェクトを、人生の豊かさに昇華できるか、あるいは依存症として泥沼の中で苦しむことになるのか。
そのシビアな分岐点を決めるものは、ただ一つ。対象との距離感を間違わないことに尽きる。
外は相変わらずの曇り空だ。
世界のノイズから一歩身を引き、この認知の「距離」を正確にコントロールできているのかという内省。
それこそが、この滑稽で、愛おしく、そしていささか厄介な人間の世界を、客観的視座から優雅に愉しむための知性の使い方なのであろう。