コンセプトアーキテクトには主義も主張も無い
―ただ構造を見ているだけ―
コンセプトアーキテクトという立場について話すと、ときどき「結局、何を主張したいの?」と聞かれることがある。 でも、その問い自体が少しズレている。コンセプトアーキテクトには、特定の主義も、掲げたい主張も、基本的には存在しない。 あるのはただ、「構造を見ている」という姿勢だけだ。社会には無数の主張があり、政治的立場があり、正義と正義がぶつかり合う議論がある。
コンセプトアーキテクトは、そのどれかを選んで旗を振るのではなく、「なぜその主張が生まれたのか」 「どんな前提条件が揃ったときに、それが合理的に見えるのか」「条件が変わったら、その正しさはどう崩れるのか」を眺めている。
価値判断を下さないというより、価値判断を“構造の一部”として扱っている、と言った方が近いかもしれない。 たとえばX線写真のようなものだ。そこには意見も感情もなく、ただ骨の配置と状態が写っているだけ。 「骨折していますよ」と言われて怒る人はいるが、それは指摘されたからではなく、見たくなかった現実が、否定できない形で可視化されたからだ。
構造を見せる行為は、攻撃でも主張でもない。ただ、逃げ場を減らしてしまう。 だからコンセプトアーキテクトは、ときに「冷たい」「思想的だ」「危険だ」と誤解される。 しかし実際には、何かを変えようとしているわけでも、誰かを説得しようとしているわけでもない。
ただ、「今、こういう構造になっています」と示しているだけだ。
主義を持たないのではない。
主義を固定しない、という選択をしている。
それは無思想ではなく、状況に応じて視点を切り替えるための、可動性を確保しているだけだ。
コンセプトアーキテクトとは、正しさを語る人ではなく、正しさが生まれてしまう仕組みを、少し離れた場所から眺めている人なのだと思う。