徒然小論文シリーズ|全6回
幸福と年収の構造論 第1回
年収と幸福は、そもそも同じものを測っていない
― 百年前の大富豪と現代の庶民 ―
土曜の朝。
部屋の掃除を終え、シャワーを浴びて、コーヒーを淹れる。
特に何か予定があるわけでもない。
コーヒーを飲みながら、興味のあることをぼんやり考える。
私はこういう時間が結構好きだ。
以前、「成功の秘訣とは」という徒然小論文を書いた。
そこで成功というものを考えてみたのだが、その先には当然、こんな疑問が出てくる。
成功すれば、幸福になるのだろうか。
もう少し俗っぽく言えば、
年収が増えれば、人は幸福になるのだろうか。
もちろん、収入が極端に少ない場合は話が別である。
家賃や食費を心配し、突然の病気や出費に怯えながら暮らしている状態では、お金は生活の安心そのものに直結する。
だから、ここではその領域は扱わない。
人並みに生活できるようになった、その先の話である。
では、年収が増えれば増えるほど、幸福も増えていくのだろうか。
少し極端な思考実験をしてみる。
人間の最大寿命のスパンで、百年ほど前の大富豪と、現代の普通の人を比べてみるとしよう。
百年前にも大邸宅はあった。
高級な服も、美味しい料理も、使用人もいた。
しかし、現代ほど快適な空調設備や家電を日常的に利用できたわけではない。
医療などは現在とは比較にならないほど脆弱だった。
ネットによって世界中の情報を瞬時に検索することもできない。
瞬時に遠く離れた人と顔を見ながら話すこともできない。
映画も音楽も本も、手元の小さな端末から好きな時に好きなだけ呼び出して楽しめるわけではない。
ましてや、コーヒーを飲みながらAIと宇宙論について自由気ままに議論することなどできなかった(笑)。
そう考えると、現代の普通の生活者は、百年前の大富豪ですら持っていなかった大量の「便利と快適」を、すでに日常的に使っている。
これはなかなか不思議なことである。
文明がこれほど豊かになったのなら、現代人は百年前の大富豪より圧倒的に幸福感に満たされていてもよさそうなものだ。
しかし、どうもそんな単純な話ではないらしい。
ここで一つ、年収という数字について考えてみる。
年収とは何だろう。
乱暴に言えば、その人の労働や事業や資産などに対して、市場の中でどれだけのお金が支払われたかという数字である。
そこには能力だけでなく、需要や希少性、立場、責任、リスクなど、さまざまなものが反映される。
一方、幸福とは何だろう。
よく眠れた。
身体の調子がいい。
家族や友人と楽しく話した。
好きなことに没頭できた。
心配事が少ない。
今日は一日、自分の好きなように過ごせる。
そういうものを私たちは幸福と呼んでいる気がする。
こうして並べてみると、少し妙なことに気づく。
年収と幸福は、そもそも同じものを測っていない。
もちろん、お金は重要である。
お金があれば住む場所を選べる。
食べるものを選べる。
旅行にも行ける。
突然の出費にも対応できる。
嫌な仕事から離れる余裕を持てる場合もある。
つまり年収が増えることによって、「できない」が「できる」に変わる。
これはかなり大きい。
ところが、その「できない」がだいたい消えたあとも、年収を増やせば幸福は同じ勢いで増え続けるのだろうか。
ここから少し怪しくなる。
しかも年収は、数字だけが増えるとは限らない。
高い収入には、それを生み出す仕事や責任がくっついてくることが常である。
会社が大きくなれば判断することも増える。
資産が増えれば管理するものも増える。
社会的に有名になれば、人目を気にせず暮らせるという、それまで無料だった自由まで失うことがある。
お金が増えるほど自由になると思っていたのに、なぜか予定表と心配事まで一緒に増えていく。
そんな逆転も起こり得る。
もちろん、それでも高い年収を目指すことは悪いことではない。
仕事そのものが楽しい人もいる。
大きな事業に挑戦することが幸福な人もいる。
欲しいものを自由に買えることも、間違いなく豊かさの一つである。
だからこれは、「お金なんて必要ない」という話ではない。
むしろ逆である。
お金はかなり便利である。
便利すぎるからこそ、私たちはいつの間にか、「お金を増やすこと」と「幸福を増やすこと」を同じものとして扱ってしまうのではないだろうか。
しかし、どうやらこの二つは少し違う。
年収を増やすことで、幸福になるための選択肢は増やせる。
だが、選択肢が増えたことと、実際に幸福になったことは同じではない。
では、ここからもう少し具体的に考えてみたい。
年収が増えたので、もっと高いものを買えるようになったとする。
まずは車で考えてみよう。
たとえば、500万円級の実用車と、1億円級のスーパーカー。
価格には約20倍の差がある。
では、1億円の車に乗れば、移動は20倍快適になり、幸福も20倍になるのだろうか。
どうも、そう簡単ではなさそうである。
次回は、この「フェラーリ問題」から考えてみたい。