徒然小論文シリーズ|全6回
幸福と年収の構造論 第2回
500万円の実用車と1億円のスーパーカー
― 移動の幸福には上限がある ―
前回、年収と幸福は、そもそも同じものを測っていないのではないか、と考えた。
年収が増えれば、できることは増える。
住む場所を選べる。食べるものを選べる。旅行にも行ける。
そして当然、買えるものの値段も上がっていく。
では、高いものを買えるようになれば、その分だけ幸福も増えるのだろうか。
まずは車で考えてみたい。
たとえば500万円級の実用車と、1億円級のスーパーカー。
価格差は実に約20倍である。
では、1億円の車は500万円の車より20倍便利なのだろうか。
もちろん、そんなことはない。
500万円も出せば、現代の実用車としてはかなり完成度が高い。
雨に濡れずに移動できる。
夏は涼しく、冬は暖かい。
高速道路も快適に走れる。
家族や友人も乗せられる。
荷物も積める。
ナビもある。
音楽も聴ける。
安全装備も充実している。
静かで、長距離を走ってもそれほど疲れない。
そもそも車の基本的な目的を、「人間を安全かつ快適にA地点からB地点へ運ぶこと」と考えるなら、500万円級の実用車ですでにかなりのところまで完成している。
では、1億円級のスーパーカーでは何が増えるのだろう。
圧倒的な加速性能。
高い運動性能。
美しいデザイン。
希少性。
エンジン音。
ブランドの歴史。
そして、それを所有しているという特別な体験。
これらは確かに500万円級の実用車とは違う。
だから、スーパーカーに価値がないという話ではない。
好きな人にとっては、その造形を眺めているだけでも楽しいだろう。
サーキットを走れば、実用車では得られない体験もできる。
車そのものを芸術品やコレクションとして楽しむ人もいる。
ただ、ここで面白いことが起きる。
値段が20倍になっても、
「移動する」という基本機能は20倍にはならない。
それどころか、日常生活だけを考えると不便になる部分すら出てくる。
二人しか乗れない。
荷物があまり積めない。
車高が低く、段差に気を遣う。
駐車場を選ぶ。
車幅にも気を遣う。
周囲からも目立つ。
そして何より、一般道では本来の性能のごく一部しか使えない。
数百馬力のパワーがあっても、前を走っている車が時速50キロなら、こちらも時速50キロで走るしかない。ストレスにすら感じてしまう。
むしろ強大な性能を一般道で安全に扱うために、運転者の側にも技量や集中力が要求される。
なんとも不思議である。
価格は大きく上がった。
性能も上がった。
しかし、「日常の移動が楽になったか」と聞かれると、必ずしもそうではない。
ここで、どうやら一つの構造が見えてくる。
物の価格が上がると、最初のうちは基本機能そのものが良くなる。
安い車から少し良い車に乗り換えれば、安全性が上がる。静かになる。乗り心地が良くなる。故障も減る。装備も充実する。
これは分かりやすい豊かさである。
しかし、あるところまで行くと基本機能はかなり完成してしまう。
そこから先に価格を上げても、「移動が快適になる」という価値は、それまでと同じ勢いでは増えていかない。
代わりに増えていくのは、希少性であったり、美しさであったり、物語であったり、所有する喜びであったりする。
つまり価格が上がるにつれて、人間が買っている価値の種類そのものが変わっていく。
これは別に悪いことではない。
問題は、その違いに気づかないまま、「高いものほど自分を幸福にしてくれる」と思ってしまうことである。
そして、もう一つ面白いことがある。
それは「所有からの拘束」である。
念願だった1億円のスーパーカーを買ったとする。
最初は嬉しい。
ガレージを開けるたびに眺める。
写真も撮る。
友人にも見せる。
ところが、しばらくすると妙なことが起こるかもしれない。
せっかく買ったのだから、乗らなければもったいない。
天気のいい休日だから、たまには走らせよう。
バッテリーのことも気になる。
機械なのだから、適度に動かした方がいい。
そうして気がつくと、本当は今日は家でのんびりコーヒーでも飲んでいたかったのに、「せっかく持っているから」という理由でスーパーカーをガレージから出している。
これはなかなか面白い逆転である。
本来、車は自分の行動を自由にするために買ったはずだった。
ところが所有した結果、今度は自分の行動が車によって決められ始める。
人が物を所有しているのか。
物が人の予定を拘束しているのか。
だんだん分からなくなってくる。
もちろん、スーパーカーが本当に好きで、休日に走ることそのものが最高の楽しみならば何の問題もない。全てが幸福感に直結していてそれは所有と幸福がきれいに一致している。
問題なのは、「欲しいから使う」が、「持っているから使わなければならない」に変わったときである。
ここには、価格だけを見ていては分からない小さな罠があるように思う。
お金が増える。
所有物が増える。
選択肢が増える。
ここまでは確かに自由が増えている。
しかし所有物には、ときどき管理や維持や利用という小さな義務が付いてくる。
増やしすぎると、自由を増やすために買ったものによって、逆に自分の時間が少しずつ予約されていく。
どうやら豊かさというものは、単純な足し算ではないらしい。
そして、この「所有」という問題は、車よりも住居で考えるとさらに分かりやすい。
広い家。大きな庭。プール。フィットネスジム。別荘。
お金があれば、すべて自分のものにできる。
しかし、自分のものにすることと、快適に利用できることは、本当に同じなのだろうか。
次回は、3LDKと豪邸から考えてみたい。