徒然小論文シリーズ|全6回
幸福と年収の構造論 第3回
3LDKと豪邸、どちらが豊かなのか
― 「所有」と「利用」を取り違える罠 ―
前回、500万円級の実用車と1億円級のスーパーカーを比べてみた。
価格は約20倍になっても、「安全かつ快適に移動する」という車の基本機能が20倍になるわけではなかった。
むしろ高額になるにつれて、希少性や美しさ、物語、所有体験といった、別の価値が増えていく。
そして、もう一つ妙なことが起きていた。
自由になるために買ったはずの車によって、「せっかく持っているのだから乗らなければ」と、自分の休日が決められ始める。
これを前回、「所有からの拘束」と呼んだ。
では、同じことを住居で考えてみたい。
一般に、年収が増えれば、より広く、より豪華な家に住めるようになる。
1LDKより2LDK。 2LDKより3LDK。 3LDKより5LDK。
その先には大きな庭のある一戸建てがあり、さらにその先にはプールやジムまで備えた豪邸がある。
数字だけを見れば、広ければ広いほど豊かに見える。
しかし、本当にそうなのだろうか。
たとえば、一般的な3LDKを考えてみる。
リビングとダイニングがある。
寝室がある。
家族それぞれの部屋もある程度確保できる。
風呂がある。
トイレがある。
キッチンがある。
収納もある。
もちろん家族構成や生活スタイルによって必要な広さは違うので、3LDKが誰にとっても最適という意味ではない。
ただ、住宅の基本的な目的を、「安全で快適に日常生活を送ること」と考えるなら、このくらいの規模ですでにかなり多くの機能が完成している。
では、そこから家を10倍の価格にしたら、暮らしは10倍快適になるのだろうか。
部屋が増える。リビングが広くなる。庭ができる。
来客用の部屋も作れる。書斎も作れる。趣味の部屋も作れる。
これは確かに楽しい。
大家族で暮らしたり、多くの来客を迎えたり、作品やコレクションを保管したりする人なら、広い家そのものが必要な場合もある。
だから豪邸が無意味という話ではない。
問題は、ここでも「基本機能の飽和」が起こることである。
部屋が一つしかなくて困っている人に、もう一部屋増える。
これはかなり大きい。
家族全員で一つの風呂を使っていた家に、もう一つ洗面所ができる。
これも便利である。
ところが、使っていない部屋が5部屋から6部屋になる。
このとき幸福も同じように増えるのだろうか。少し怪しい。
しかも家というものは、広くなると勝手に維持されてくれるわけではない。
床が増えれば掃除する場所が増える。
窓が増えれば窓拭きも増える。
庭が広くなれば草木の手入れが必要になる。
設備が増えれば、故障する設備も増える。
冷暖房する空間も増える。
家の中を移動する距離まで長くなる。
便利になるために広くしたはずなのに、
広くなったことで新しい仕事が発生する。
もちろん、お金があれば人に頼むこともできる。
清掃を頼む。庭師を頼む。設備管理を頼む。料理を作る人を頼む。
そうすれば自分でやる必要はない。
しかし今度は、「家を管理する人を管理する」という別の仕事が生まれる。
そして毎日のように誰かが家へ出入りする生活を、すべての人が快適だと感じるとも限らない。相手がどんな人物かもわからないし、場合によってはストレスにすら感じるだろう。
家とは本来、外の世界から離れて、誰にも気を遣わずに過ごせる場所でもある。
豪華さを維持するために人を増やした結果、その家で一人になれる時間が減ってしまったら、これも少し不思議である。
さらに分かりやすいのが、プールである。
大豪邸にはプールがある。いかにも豊かである。しかし考えてみる。
人は本当に、「プールを所有したい」のだろうか。
それとも、「気持ちよく泳ぎたい」のだろうか。
泳ぎたいだけなら、設備の整ったスポーツクラブへ行けばいい。
水質は管理されている。清掃もされている。シャワーもある。ロッカーもある。
施設によってはトレーナーやインストラクターまでいる。
自宅のプールを自分で維持する必要もない。
フィットネスジムも同じである。
最新のトレーニングマシンを全部自宅に置くことはできる。
しかし、専門施設へ行けば、もっと多くの設備を必要なときだけ使える。
壊れても自分で修理する必要はない。
新しいマシンへの入れ替えを考える必要もない。
ここで、かなり重要な違いが見えてくる。
所有することと、利用することは違う。
人間が欲しいのが「体験」であるなら、必ずしもその体験を生み出す設備まで所有する必要はない。
プールが欲しいのではない。泳ぎたいだけなのだ。
ジムが欲しいのではない。身体を動かしたいだけなのだ。
映画館が欲しいのではない。映画を楽しみたいだけなのだ。
そして、おそらく家が欲しいのでもない。
本当に欲しいのは、快適に暮らせる場所なのだと思う。
ところが年収が増え、何でも買えるようになると、「利用できる」から、「所有できる」へと発想が変わることがある。
ここで再び、前回の「所有からの拘束」が顔を出す。
たとえば別荘を買ったとする。
最初は楽しい。景色もいい。静かである。休日に好きなだけ行ける。
ところが数年すると、せっかく買ったのだから、たまには行かなければもったいない。
しばらく行っていないから、様子を見に行こう。
庭も気になる。換気もしたい。設備も確認したい。そんなことを考え始める。
本当はその週末、近所でのんびり過ごしたかったかもしれない。
あるいは、まったく別の場所へ旅行したかったかもしれない。
しかし、「別荘を持っている」という事実が、休日の行き先を決め始める。
これはスーパーカーとまったく同じである。
欲しいから買った。自由になるために買った。
ところが所有した瞬間から、維持しなければならない。
使わなければもったいない。放置するのも気になる。という小さな義務が発生する。
豪邸も同じかもしれない。大きなリビングがある。立派なダイニングがある。庭もある。
せっかくこれだけの家があるのだから、たまには友人を招こう。
料理も用意しよう。部屋も整えよう。
気がつけば、本当は静かに過ごしたかった休日に、自分の家を活用するための予定を自分で作っている。
もちろん、人を招くのが大好きなら、それは素晴らしい。
別荘へ行くのが毎回楽しみなら、それも幸福である。
プールで毎朝泳ぐ人なら、自宅プールには十分な意味がある。
結局のところ問題は、大きいか小さいかでも、高いか安いかでもない。
自分が本当に使いたいものと、所有しているものが一致しているか。
そこなのだと思う。必要だから所有する。好きだから所有する。使いたいから所有する。ここまでは自然である。
しかし、所有しているから使う。所有しているから維持する。所有しているから予定を作る。となった瞬間、主従関係が少しずつ逆転していく。
豊かになるために増やした所有物が、自分の時間と行動を要求し始める。
人が家を所有しているのか。
家が人の人生の一部を所有しているのか。
これも、だんだん分からなくなってくる。
だから、住宅の豊かさを単純に床面積や価格だけで測ることは難しい。
必要な空間があり、必要な設備があり、掃除や管理に追われず、誰にも気を遣わず、
好きなときに好きなことができる。
案外、住宅の幸福とは、「どれだけ多く持っているか」ではなく、「どれだけ気持ちよく暮らせるか」なのかもしれない。
車でも同じことが起きた。
家でも同じことが起きた。
どうやら価格を上げ続けても、人間側の快適さは同じようには増えていかないらしい。
では、衣食住の「食」はどうだろう。
年収が増えれば、毎日でも最高級の料理を食べられる。
朝から豪華な食事。昼も高級店。夜は毎日フルコース。
望むなら専属の料理人を雇うことだってできる。
それなら、食の幸福はどこまでも増やせるのだろうか。
ところがここでは、車や家よりさらに強力な制約が登場する。
人間の身体である。
次回は、「毎日のフルコースは幸福なのか」から考えてみたい。