徒然小論文シリーズ|全6回
幸福と年収の構造論 第4回
毎日のフルコースは幸福なのか
― 消費は無限でも、身体は有限である ―
前回は、3LDKと豪邸について考えてみた。
家は広くすればするほど快適になるわけではない。
プールもジムも、所有するより専門施設を利用した方が便利な場合がある。
さらに、所有物が増えすぎると、「使いたいから所有する」から、「所有しているから使わなければならない」へと主従関係が逆転することすらある。
どうやら、お金をたくさん使えることと、快適に暮らせることは同じではないらしい。
では、衣食住の「食」はどうだろう。これはもっと分かりやすいかもしれない。
年収が大きく増えたとする。もう食費を気にする必要はない。
朝から最高級の食材。昼は有名店。夜は毎日フルコース。
世界中から高級食材を取り寄せることもできる。
予約の取れない店にも行けるかもしれない。
望むなら、自宅に専属の料理人を呼ぶことだってできる。
食事に使える金額だけを考えれば、上限はほとんどない。
一食千円でもいい。一万円でもいい。十万円でもいい。もっと高額な食事だって存在する。
ところが、ここで一つ困ったことが起きる。
人間の胃袋は、年収に連動して大きくならない。
年収が2倍になっても、胃袋は2倍にならない。
年収が10倍になっても、一日に必要な食事量が10倍になるわけではない。
年収が100倍になったところで、夕食を100回食べることもできない。
当たり前の話である。しかし、この当たり前が意外と重要である。
お金には、かなり大きな拡張性がある。収入を増やすこともできる。資産を増やすこともできる。一食に使う金額だって、理屈の上ではどんどん増やせる。
しかし、そのお金を受け取る側の人間には、明確な限界がある。
胃袋には容量がある。一日は24時間しかない。味覚にも慣れがある。
そして身体には、その人なりの適量がある。
つまり、消費額は増やせても、人間の身体そのものは増やせない。
これは車や家とは少し違う。
車では、基本機能があるところで飽和した。
家でも、必要な空間や設備が揃えば、追加された面積の価値は小さくなっていった。
しかし食の場合は、さらに強い。一定量を超えて食べ続ければ、単に幸福が増えないだけではなく、身体にとって負担になってしまう。
どれほど高級な料理であっても、食べ過ぎれば苦しい。
最高級のステーキでも、満腹のあとにもう一枚出されたら嬉しいとは限らない。
どれほど有名な料理人が作ったデザートでも、「もう入らない」という状態になれば、その価値を十分に受け取ることはできない。
値段の問題ではない。受け取る側の限界である。
考えてみれば、これはなかなか面白い。
お腹が空いているときに食べる一杯の温かいスープは、とても美味しい。
しかし、そのあと十万円の料理を追加すれば、幸福が十万円分増えるわけではない。
むしろ、「もう何も食べたくない」となるかもしれない。
つまり食には、明らかに「ちょうどいい」が存在する。
少なすぎれば困る。質が悪すぎても困る。
しかし、多ければ多いほどいいわけでもない。
高ければ高いほどいいわけでもない。
ここでもまた、単純な足し算が成立しない。
では、量ではなく「質」を上げればいいのではないか。
もちろん、それはある。
良い食材。丁寧な調理。美しい盛り付け。心地よいサービス。
普段食べない料理との出会い。
大切な人と特別な店で過ごす時間。
こうした体験には十分な価値がある。
高級料理そのものを否定する理由は何もない。
たまに食べるからこそ楽しい、ということもある。
問題は、それを毎日にしたら幸福も毎日最大になるのか、ということである。
毎日フルコース。毎日特別な店。毎日最高級。
最初の数日は楽しいかもしれない。
しかし、それが日常になれば、それはもう「特別」ではなくなる。
昨日もフルコース。今日もフルコース。明日もフルコース。
そのうち、「今日は普通のご飯でいいんだけどな」と思う日が来ても不思議ではない。
人間には慣れというものがある。
特別な体験も、繰り返せば日常になる。
これは価格では解決できない。
さらに、高級な食体験には別の面白さもある。
人気店なら予約が必要になる。
場合によっては、かなり前から予定を決める。
決められた時間に店へ行く。
店によっては服装にも気を配る。
その日の気分が変わっても、「今日は家で簡単に済ませたいな」とは言いにくい。
予約しているから行く。
つまり、「食べたいから店へ行く」から、「予約しているから食べに行く」へと変わることがある。
どこかで見た構造である。
スーパーカーでは、「乗りたいから乗る」が、「所有しているから乗る」になった。
別荘では、「行きたいから行く」が、「持っているから行く」になった。
そして高級レストランでは、「食べたいから行く」が、「予約しているから行く」になる。
豊かさを増やしたはずなのに、また予定が一つ増えている。
では、自宅に料理人を呼べばいい。
確かに、それなら予約のために店へ行く必要はない。
しかし今度は、決められた時間に人が家へ来る。
食材を持ち込む。調理する。片付ける。
当然、その間は家の中に他人がいる。
これを最高のサービスだと感じる人もいるだろう。
一方で、「今日は誰にも会わず、適当な格好で、好きなものを好きな時間に食べたい」という日もある。
そういう日にまで料理人が来るなら、サービスがむしろ予定になってしまう。
お金を使えば、料理を作る手間は減らせる。
しかし、他人に合わせなくていい自由まで必ず増えるとは限らない。
ここでもまた、高級であることと、自分にとって快適であることとは、同じではない。
こうして考えてみると、食の幸福はかなり不思議である。
高価なものを食べられることは豊かさである。
好きな店へ行けることも豊かさである。
食費を心配しなくていいことは、間違いなく大きな安心である。
しかし、その先へ進んでも、人間の身体は変わらない。
胃袋は有限である。時間も有限である。食欲も有限である。
そして、最高級の料理を毎日食べられるほどお金があったとしても、
今日は焼き魚と味噌汁が食べたい、という身体の要求まで、お金で変更できるわけではない。
ここで、このシリーズの奥にある構造が少しずつ見えてきた気がする。
お金の側には、上へ伸びていく余地がある。
しかし、それを使って幸福を感じる人間の側には、さまざまな限界がある。
車なら、移動性能を受け取れる限界がある。
家なら、快適に使える空間の限界がある。
食なら、ついに身体そのものの限界がある。
だから、消費額を増やし続けても、幸福が同じ割合で増え続けることは難しい。
むしろあるところから先は、増やすことより、自分に合った量を選ぶことの方が重要になる。
ただし、この答えを出すには、もう一つ見ておきたいものがある。
衣食住の「衣」である。
これも、お金をかければいくらでも高級にできる。
高級スーツ。ドレス。高級ブランド。希少な素材。職人による仕立て。
ところが人間の身体だけを考えると、動きやすく、軽く、肌触りがよく、
暑くも寒くもなく、気軽に洗える服はかなり快適である。
では、価格を上げ続ければ、「着る幸福」も上がり続けるのだろうか。
次回は、高級スーツとお気に入りのTシャツから考えてみたい。