徒然小論文シリーズ|全6回
幸福と年収の構造論 第5回
高級スーツとお気に入りのTシャツ
― お金を払って不自由を買うとき ―
前回は、毎日のフルコースについて考えてみた。
食事に使える金額には、事実上かなり大きな上限がある。
しかし、それを受け取る人間の身体には限界がある。
年収が10倍になっても、胃袋が10倍になるわけではない。
どれほど高級な料理でも、満腹になればそれ以上は食べられない。
つまり、消費額は増やせても、人間の身体そのものは増やせない。過剰が過ぎれば病気にすらなりかねない。
では、衣食住の最後、「衣」はどうだろう。
服もまた、お金をかけようと思えばいくらでもかけられる。
数千円の服もある。数万円の服もある。数十万円の服もある。さらに高価なものもある。
希少な素材。職人による仕立て。歴史あるブランド。一点物のデザイン。
服そのものを芸術や文化として楽しむこともできる。
もちろん、それには十分な価値がある。
では、価格を上げれば上げるほど、「着ることの幸福」も増えていくのだろうか。
まず、服の最も基本的な機能を考えてみる。
身体を守る。暑さや寒さを調整する。肌を覆う。そして、できれば動きやすい。
これだけなら、現代の普通の服ですでに相当なところまで完成している。
軽い。伸びる。乾きやすい。洗濯機で洗える。シワになりにくい。汗をかいても不快になりにくい。冬なら暖かく、夏なら涼しい。
人間の身体を快適に包むという意味では、かなり高性能である。
では、ここで100万円の高級スーツを着てみる。
仕立てがいい。生地もいい。シルエットも美しい。身体に合わせて作られている。
着ている本人の気分も上がるだろう。
重要な商談や式典では、服装そのものが相手への敬意を表すこともある。
高級な服には、単なる防寒具ではない価値がある。
文化。礼儀。美しさ。自己表現。社会的な意味。
だから高級スーツに価値がないという話ではない。
問題は、「では毎日それを着たいか」ということである。
休日の朝。今日は何の予定もない。近所へコーヒーを買いに行く。
少し散歩する。家に戻って本でも読む。
そんな日に、「せっかく100万円のスーツを持っているから」という理由で、わざわざスーツに着替える人はあまりいないだろう。
むしろ、お気に入りのTシャツ。履き慣れたパンツ。軽いスニーカー。そのくらいの方が快適だったりする。
ここでも妙なことが起きる。
価格だけなら高級スーツの圧勝である。
しかし、「今日は一日、身体を楽にして過ごしたい」という目的では、Tシャツの方が勝つことがある。
値段ではない。用途が違うのである。
考えてみれば当然である。
服には、人間の身体を快適にする機能と、社会の中で自分を表現する機能の両方がある。
高級になればなるほど、その後者の価値が大きくなる場合がある。
ブランド。デザイン。格式。希少性。他者からどう見えるか。
それらは確かに価値である。
しかし、それは必ずしも、「身体が楽である」という価値と同じ方向には進まない。
ドレスもそうである。美しい。華やかである。特別な場所では、その服を着ること自体が素晴らしい体験になる。
しかし、そのドレスを着てソファに寝転がりたいかと言われれば、たぶん別の話である。
高級な革靴も美しい。しかし、休日に一日歩き回るなら、履き慣れたスニーカーを選びたい人も多いだろう。
つまり服でも、価格を上げることで得られる価値と、身体が感じる快適さが、ある地点から別々の方向へ進み始める。
ここまで来ると、少し面白くなってくる。
普通なら、お金をたくさん払えば便利になると思う。
実際、あるところまではそうである。
安すぎて寒い服より、暖かい服の方がいい。
すぐ破れる靴より、丈夫な靴の方がいい。
身体に合わない服より、身体に合った服の方がいい。
この領域では、お金を使うことで不便が減っていく。
ところが、その不便が十分に減ったあとも価格を上げ続けると、今度は別の価値を買い始める。
美しさ。希少性。格式。物語。社会的な意味。
そして場合によっては、その価値を維持するための制約まで一緒に買うことになる。
汚さないように気を遣う。雨の日には着ない。クリーニングに出す。
保管にも気を遣う。着ていく場所を選ぶ。服装に合わせて靴や時計まで考える。
高価だからこそ雑には扱えない。
すると不思議なことに、服を快適に使うためにお金を払ったはずなのに、服を守るために人間の方が気を遣い始める。
これも、どこかで見た構造である。
スーパーカーでは、段差や駐車場に気を遣った。
豪邸では、掃除や設備や庭の管理が増えた。
別荘では、所有しているから休日に様子を見に行った。
高級レストランでは、予約しているから予定を合わせた。
そして高級な服では、服を傷めないように自分の行動を調整する。
豊かになるために手に入れたものが、少しずつ人間の行動を指定し始める。
もちろん、それが楽しい人には何の問題もない。
スーツを着ることが好きなら着ればいい。
服を集めることが趣味なら、それ自体が幸福である。
毎朝クローゼットを開けることが楽しみなら、多くの服を所有する意味は十分にある。
このシリーズでずっと考えているのは、高級なものが良いか悪いかではない。
自分が本当に欲しい価値は何なのか。それだけである。
身体を楽にしたいのか。
美しいものを身につけたいのか。
社会的な場にふさわしい服装をしたいのか。
所有すること自体を楽しみたいのか。
目的が分かっていれば、高級品も合理的である。
しかし、高いから幸福なはずだ。
持っているから使わなければならない。
せっかく買ったから着なければならない。
となった瞬間、また主従関係が怪しくなる。
ここまで、車、家、食、服と見てきた。
一見すると、まったく違う話である。しかし、どうも全部に同じ構造がある。
最初のうちは、お金を使うことで不便が減る。
寒かった部屋が暖かくなる。
狭かった家が広くなる。
移動が快適になる。
食事の選択肢が増える。
質の良い服が買える。
この段階では、お金は非常に強い。
お金を増やすことが、そのまま生活の改善につながりやすい。
ところが、ある地点を超えると様子が変わる。
車は、移動手段から希少な所有物へ変わる。
家は、生活空間から管理対象へ変わることがある。
食事は、身体が受け取れる量を超えられない。
服は、身体を楽にするものから、社会的・文化的な意味を持つものへ広がっていく。
つまり、お金は上へ上へと増やしていけるのに、人間側の基本的な快適性には、どうやら「ちょうどいい領域」が存在する。
そして、その領域を大きく超えると、追加されたお金は、快適性そのものではなく、希少性や所有体験、社会的意味、特別な経験などへ変換されていく。
それらにも価値はある。
ただし、それを「幸福そのもの」と呼べるかどうかは、人によって違う。
さらに場合によっては、お金を使って増やした所有物や予定が、自分の時間や行動を拘束し始める。
ここまで考えて、最初の疑問に戻ってみたい。
年収が増えれば、人は幸福になるのだろうか。
どうやら、「増えれば増えるほど幸福になる」というほど単純ではなさそうである。
しかし、だからといって、「お金は幸福と関係ない」というのも明らかに違う。
お金は必要である。ある程度までは、非常に強力に人生を快適にする。では、どのあたりから話が変わるのだろう。
そして、人間にとって本当に豊かな状態とは何なのだろう。
その答えを考えるために、最後にもう一度、土曜の朝へ戻ってみたい。
部屋を整える。シャワーを浴びる。着心地のいい服を着る。
コーヒーを淹れる。そして、誰にも邪魔されず、好きなことを考える。
この時間には、いったいいくらの年収が必要なのだろう。
次回、最終回。「土曜の朝のコーヒーを年収に換算する方法を私は知らない」から考えてみたい。